ハブジャンプテレビマン

サメを命の恩人と仰ぐテレビマンエッセイ

n1096 別れ

昭和63年4月、父危篤の報に、急ぎ帰郷。

しかし、父と会えたのは、息を引き取ってから既に15時間が過ぎていました。

ひかるがきっとテレビを運んで来ると、ひかるの作ったテレビが見られる日を、生涯の楽しみにしていた父は、突然心筋梗塞に襲われ、79歳で帰らぬ人となりました。

ひとつ屋根の下で住みたかったのに・・

許してくれ!

少年の夢を見守ってくれて、

有難う・・

有難う・・

冷たくなった父を抱きしめ、何度も何度も呟きました。

お互い死に水は取れないと、覚悟の上とは言え、何の反応もしなくなった父の姿に、「親不孝な息子だったのか」、最後に一言答えて欲しかった。

15時間も経過しており、ゆっくり対面している間もありません。

喪主としての段取りや、弔問客との応対、時は目まぐるしく過ぎ、仏事での貸切船や船頭への式たり等、長老の皆さんに教わり、石垣島から黒島の墓へ無事納骨。

島の家で、位牌となった父と二人っ切りになった時、親子でありながら、生涯に交わした会話の、余りにも少なかった事を、しみじみ感じさせられました。

振り返ってみると、中学時代は、一家を襲った試練に、両親が必死で立ち向かい、高校は石垣島での下宿生活、卒業と同時に上京。

親子が一緒に生活する期間が、余りにも少なかったのでした。

父は島を離れられず、息子は、夢を追い続けるしかなく、別々の道を歩むしかなかった。

親子の絆のあり方、人生は、これしかなかった、と自分に言い聞かせるしかありませんでした。

もっと、たくさん話し合いたかったのに・・こんな親子関係で終わりたくなかったのに・・今となっては仕方がありません。

父は周りの人達が島を引き上げる中、目の前に広がる海を味方とし、自分には、太平洋という、大きな畑がある。

海がある限り魚は獲れる、決して飢える事は無い、と言っていました。

この海は、息子や娘のいる、東京まで続いているんだ、といつまでも浜に佇み、語りかけていたとの事。

弔問客も途絶えた真夜中の三時、父の愛した海が懐かしく、浜へ出てみました。南国の夜空に、黙黒の大海原。

千古変わらぬ、さざ波の音。遥か彼方より漂う、潮の香りを体一杯吸い込み、別れの杯を交した、父の事を思い浮かべた時、満天の夜空に、白い歯でニッコリ笑う、日焼けした父の顔が、超特大パノラマ画面で映し出されました。

親父! 親父は世界で一番、素晴らしい親父だった。ひかるは、世界で一番幸せな男になったぞ! と言ってやりました。

必ず、両親の眠る墓に、テレビを届けてやる!親子の約束、必ず果たす迄頑張る、と心に誓い、位牌を胸に、島を後にした。

テレビを待つ、島の子供達や、お年寄達がいる。

・・ロマン旅 いつまで続く また歩く・・。