光男は昭和40年の入社時、都会の人にだけは負けたくない、という一心で、自分なりの知恵を絞っていました。
当時のテレビカメラは馬鹿でかく、支える三脚は鉄の塊、ケーブルは78芯で銅の束。
それをカメラ台数分セッティングし、撤去。毎日が大綱引き。
それに比べスタジオは冷暖房完備で、暇な時には、タレントとも気楽に接することができ、同期の人達は、大半がスタジオ勤務を希望。
光男は沖縄人、沖縄は昭和20年の敗戦から昭和47年まで、27年間アメリカ統治、日本へ来るにもパスポートが必要だった。
私は都会の人達に負けないためには、丈夫な体を使い、皆が嫌がる中継部門で自分の存在価値を見いだそうと考え、中継部門を希望したのである。
当時、球場は勿論、ほとんどのホールなど、中継回線が敷設されておらず綱引きだらけ。
しかし体力だけでは、単なる馬鹿力持ちに過ぎず、勝負になりません。
わら半紙を買い込み、毎日出かける球場や劇場は勿論、各区民ホール等の中継車の駐車位置やケーブル長。
引き回しからオーケストラピットや舞台裏の状況、ケーブルがお客の動線をまたぐ場合の、ケーブル覆いの絨毯の枚数から色など、克明にデータを作ります。
次回そのホールを使う時は、必ずデータを頭に叩き込み仕事に臨みます。
数年後には、関東一円のほとんどのデータが出来上がりました。
あいつがいれば大丈夫だ、と言われ若い連中のリーダーシップが取れるようになったのです。
光男がパスポートを焼き捨てて2年後の30歳。
メインのスタジオ部分を統括していた同期入社の連中が、次々と優秀な社員を引き抜き別会社を4度にわたり4社を設立。
社外流出と言われ中継番組、外回り中心だった第1期入社唯一の光男がスタジオ部分も含め統括せざるを得ない状況。
存続が危ぶまれた状況の中、光男は自分なりに業界の状況を分析、奇抜なアイデアで次々と突破口を見いだしていったのです。
テレビは今、ワイドショーやクイズ番組などスタジオ中心。
お茶の間は今、全国の山や川、生活や祭り、海外ロケなど外の映像、情報を欲しがっている、と技術開発に乗り出す。
ロケ用VTR、カメラ、レンズや三脚、バッテリー開発などを各メーカー特機部門を回り協力要請。
あれよあれよという間に完成させたのである。
我々の脳細胞は、120億もあると言われ、この組み合わせから絞り出される知恵は、無限で、枯渇することはあり得ない。
もし枯渇を心配する人がいるとすれば、それは太平洋の水をバケツで汲み、水が枯渇するのを心配しているようなものです。
無尽蔵な財産を使わずに、このまま灰にするには、あまりにももったいない話である。
光男は、波と岩の熾烈な戦いの中にも自分なりの答え「これしかない!」を見いだしました。
そして父の生き方から、前にも行けず引くことも叶わず、ただ現状のまま耐えるしかない。
「これしかない!」ことを教えられ、これしかない道を求めるよう心がけることができました。
誰しもその時々の状況に応じ、今採れる最良の道を求めれば、結果については納得できるはず。
知恵という財産、知財を最大限有効に使うテクニックとして「これしかない」方法を試みる必要があるかと思います。
遅くない「これしかない」道をやってみよう。